名古屋高等裁判所 昭和54年(ネ)652号 判決 1980年6月30日
控訴人
水谷まち子
同
岩田さち
同
木村元
同
木村宏
右四名訴訟代理人
福間昌作
被控訴人
木村弘子
右訴訟代理人
山路正雄
右訴訟復代理人
異相武憲
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実《省略》
理由
一<証拠>によれば、被控訴人(昭和三年六月一〇日生)と木村秀次(大正二年一月五日生)とは昭和五二年一月一四日名古屋市瑞穂区長に対し夫の氏を称する婚姻届をしたことが認められる。
そして<証拠>によると、秀次の先妻久美子は昭和四九年一一月一二日死亡したこと、秀次は前示婚姻届後の昭和五二年一月一九日に死亡したが、秀次には子も両親もなく、その兄弟姉妹及びその代襲者としては姉である控訴人まち子、同さち、及び昭和五〇年六月一四日に死亡した兄木村太郎の子である控訴人元、同宏の四名がいることが認められる。
二控訴人らは被控訴人と秀次との前記婚姻が無効であると主張するところ、<証拠>を総合すると、右婚姻の経緯につき次の事実が認められる。
被控訴人は昭和三八年一二月頃、名古屋市中区にある○○荘に勤務していたが、同所は郵便局関係者の寮であつたところから、同所をよく利用していた郵便局職員の秀次と知り合うようになり、昭和四二年頃から性関係を伴う交際をするようになつた。しかし当時秀次には妻がいたので被控訴人は一たんは身を引こうとしたけれども、秀次の情にほだされて同人との関係を続け、この関係は、昭和四九年一一月一二日に秀次の妻が死亡し、その頃秀次自身も郵便局を退職して名古屋郵便貯金会館の総支配人として働くようになつた後も継続していた。一方、秀次は、昭和五〇年五月頃から宮沢慶子とも情交関係をもつようになり、同年一二月頃、名古屋市瑞穂地区亀城町にマンシヨンを買つてここに同人を居住させていた。ところが、秀次は昭和五〇年頃から胃の具合が悪くなり、同五一年三月頃、開腹手術を受けて同年五月頃一たん退院したが同年一一月頃から食欲もなくなり、被控訴人のすすめもあつて、再び同年一二月二三日同市南区新郊通りの○○病院に入院した。被控訴人はこの病院に毎日通つて秀次の世話をし、昭和五二年一月五日からは泊り込みで看病をしていたが、秀次が既に癌の末期症状で、余命はあまりないことを知らされた。他方、秀次は先に宮沢慶子を居住させていたマンシヨンを同人に遺贈する旨の遺言書を作成したこともあり、過去一〇年にわたつて関係を継続し世話にもなつた被控訴人には自己の死亡後、妻として国家公務員の共済年金だけでも受けさせてやりたいと思うようになり、被控訴人の同意を得た上、昭和五二年一月はじめ頃、被控訴人を自己の妻とする意思を被控訴人の姉の夫で友人である石原浩一、秀次の先妻の妹である畑山陽子、控訴人まち子らに伝えた。秀次は直ちに婚姻届をしようとしたが、控訴人まち子や同さちにおいて秀次の意思を確認しようとしたために届出がおくれたことにいらだち、同月一三日頃「何で反対しているのかおれを殺す気か。」と言つて怒つたほどだつた。その結果翌一四日頃には、証人欄に石原浩一と控訴人まち子の子秀実との署名押印を得た婚姻届が作成されるにいたり、これが前示のとおり名古屋市瑞穂区長に提出され受理された。その後秀次は同月一九日前記○○病院で被控訴人らにみとられながら死亡した。
<証拠判断略>
右事実によれば、秀次は死を目前にして、過去一〇年にわたり関係を持ち親身の世話をしてくれた被控訴人をこの際妻として迎え、自己の死亡後は被控訴人に遺族年金の受給資格を得させたいと考え、その旨を被控訴人に申し入れてその承諾をえ、両者は法律上の夫婦となる意思のもとに、本件婚姻届をなしたものであつて、この届出は秀次の発意による両者の合意に基づいてなされ、被控訴人からの強要ないし要求によるものではなかつたものと認めるべきである。
三してみれば、秀次と被控訴人との本件婚姻は有効であつて、これを無効とする控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であるから、本件控訴を棄却することとし、民事訴訟法八九条、九三条、九五条を適用して主文のとおり判決する。
(秦不二雄 三浦伊佐雄 高橋爽一郎)